令和7年5月17日、船橋葭根会定期総会が開催され、
役員改選があり花形和昌会長が3期目を務めることとなりました。
船橋葭根会の皆様へ
令和3年度に会長に就任し、本年定期総会において3期目の会長職をお引き受けすることとなりました花形和昌です。
平素は町会活動にご理解ご協力をいただき厚くお礼申し上げます。
船橋葭根会は、「自分たちのまちは自分たちで守ろう」と、会員相互が助け合い親睦を図りながら、安全で安心なまちづくりに取り組んでいる町会です。
安全で住みよいまちづくりのためには、「地域」という身近な場所を基本として、普段から人と人が知り合い、できることからお互いに助け合う(支えあう)こと、行動することが必要となります。
町会は、地域の情報交換の場として、一人では出来ないことを皆で協力して行うための、一番身近な「場」なのです。 ⇒ 知りあい、ふれあい、支えあいこのようなまちづくりを目指して、町会運営・活動に役員一同尽力いたして参ります。
引き続きご理解ご協力を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。

 

 

 

第七代 花形 利夫会長による町名の由来について

せたがや町総連だより第42号より

船橋葭根町名の由来

15代将軍徳川慶喜が大政を奉還し、明治親政の世となり廃藩置県が行われ、
一時期廻沢船橋両村は品川県、八幡山村は彦根県となったが、その後間もなく三村共に神奈川県となり、明治22年市町村制施行により、烏山・給田・上祖師谷・下祖師谷・粕谷の各村と共に統合した千歳村となり北多摩郡に属していたが、明治26年4月東京府となり、昭和11年砧村と共に世田谷区に編入され、現在に至っています。
(希望丘土地区画整理組合 事業完成記念誌より引用)

船橋葭根会は以前は船橋全体1丁目~7丁目で、一つの町会でありましたが、
終戦の昭和20年8月15日後に分離独立し、戦後の混乱期は、防犯・防火を主目的に組織され現在の町会に発展しました。
この地が明治の頃、東京府北多摩郡千歳村船橋字葭根耕地と称されていたことから、葭根と云う字名が町会名として残されています。
今日、船橋6丁目の「葭根公園」に唯一、名を留めております。
時代の流れと共に、わが町葭根会周辺を含めて、環境も大きく変化して来ました。
いつ起きてもおかしくない大震災、とりわけ情報化と共に私たちの周辺でも、
犯罪などの不安な世情に囲まれる時代でもあります。
また、少子高齢化の時代が加速し、身近な問題が山積しています。
そのような世情の中でこそ、「こんにちは!」と気楽にいえるまち、生まれ育ったまち、いつまでも住んでいたいまち、を基本として居心地のよい「わがまち」を創っていきたいと思います。ご近所の底力・向こう三軒両隣が協力して「自分たちのまちは自分たちで守る」をスローガンにして、
船橋葭根会の結束強化、安心・安全・防災・減災のまちづくり活動等への活用を図ってきたいと思います。また、災害時の救難活動、物資輸送のかなめとなる道路整備が求められています。
歴代町会長のご尽力により今日があることを感謝し、船橋葭根会の皆様と協力して明るい住みよい町にして行きたいと願っています。

 

歴代町会長

初 代 篠﨑 竹冶郎

第二代 花形 市五郎

第三代 吉崎 義正

第四代 黒田 寅之助

第五代 花形 和夫

第六代 吉崎 義記

第七代 花形 利夫

第八代 小林 美津江

第九代 花形 和昌